2022-05-16

菜園「野の扉」伊藤さん夫妻のインタビュー ~ オーガニックな暮らし ~

【 菜園「野の扉」 伊藤さん夫妻 】

伊藤さんご夫妻は、農業とは全く関係ない家庭育ちの二人が出会い、パン屋さんから農家になりました。いつかは農業と思っていた伊藤さんの就農への入り口は、パン屋さんの頃に縁ができた皆農塾で、そのまま埼玉県寄居町で1993年の開園以来、せめて、自分たちの生業(なりわい)の場である畑には、農薬や化学肥料は撒きたくはないと、農薬と化学肥料を一切使わず野菜を作っています。

 

― お二人はそもそも農家さんなど、農業に関わる家庭で育ったのでしょうか。

ご主人:生まれは東京なんですけど、1歳から静岡の田舎、富士山の麓みたいなところで育ちました。

そもそも身の回りが有機農業というか、肥溜めがあったり、牛や馬がまだいたんですよ。

私の目標は有機農業というか、そういった身近な友達の家がしているような農業なんです。

農業自体はもう中学の時あたりからやりたいなって思っていました。

それは何でかなと思ってみると、公害の街でもあったんですね、自分の町が。

田子の浦港とかね、あとやっぱり喘息とかそういうので。

それで公害影響調査とかいうので大学の医学部が来て子供をモルモットにするいうのを毎年やるんだけれども、毎回7カ所ぐらい注射を打つんです。それで反応を見るんでしょうね。

そんなことをされていたから世界に対して非常に懐疑的になって。

中学の時には農業高校に行って農業をやりたいなと思ったんだけれども、「お前それでどうするんだ」って話になって、そう簡単にはいかないのかとその頃は思いましたね。

でも常に農業をしたいというのは思っていました。

 

― 頭の片隅には農業をしたいといいう思いがあったということですね。

ご主人:いつかはそうなるだろうと思っていたというか。

まあ高度経済成長真っ只中でもあるし、自分が大事にしていた沼や山とかがガーンってすぐ壊されるような時代でもあったから、もうすっかり後ろ向きに私はいたわけですね。

 

― 奥様はどうですか。

奥様:私は転勤転勤で、故郷がないような育ち方をしていますね。

特に農業とは何の接点もないです。

 

― それほど農業に関心があったわけでもないですか。

奥様:全くなかったと思います。

 

― では農業に関心を持ち始めたのはご主人とご結婚されてからということでしょうか。

奥様:いややっぱり大学時代に、主人が実体験したようなことを石牟礼さんの水俣の本などで読んで……あれは一番大きかったかなと思うんですけど。

そういった何となく後ろ向きの姿勢というのは大学時代に身についたのではないかと思います。

ご主人:ちょうど自分は大学生だったんですけど、その頃は第一次エコロジーブームで、サステナブルとか持続可能とか非常に話題だったんですね。

それで私はもちろんそれに「そうだ!」と傾倒して。

やっぱり原発問題とかもありましたけれども、いろいろ言えば言うほど反体制みたいに勝手にされてしまって……おかしな話ですけどね。

生物をちょっと学びたいということで理学部にいて……まともに行かないでやめちゃったんですけれども。

その中で一緒に学ぶ友達とかにも一生懸命呼びかけたんですけれどもね、まったく通じないしこれはダメだなと。

それでちょうどその頃エコロジーブームということで、エコロジー研究会とか大学の中にサークルができたりして、私もそこに属して、畑を大学の構内に作って、「キャンパスを畑にする」と言ったりしていたんですけど(笑)

だからずっと続いてたんですね自分の中では。

 

― ずっと一貫して自然や農業に対する思いがあったのですね。

ご主人:一貫していますよね。

 

 

― その後、今のように農家を始める前に何かお仕事はされたりしていたのでしょうか。

ご主人:二人でパン屋をしていたことがあります。

 

― それは大学卒業後ですか。

ご主人:私は卒業しないで辞めてしまって、それで何しようかなと。

農業はいつかするだろうけれども、今はどうしたらいいか分からないと思って。

とにかく手に職をつけようということで、パン職人になって、何年か……足掛け5年くらい色々なところに行ったんですよね。

そこから独立して、国産小麦天然酵母のパン屋としてお店をしていたんです。

 

― その頃は奥さんとはお付き合いしてたんですか。

奥様:いや違いますよ。この人のお兄さんと私の大学時代の一番仲良い友達が結婚したんです。

 

― それでパン屋をされていて、そこからどうやって農業の道に向かわれたのですか。

ご主人:独立してパン屋をやる時も「いつかこれで小銭でも作って農業をやるんだ」というような思いがあったんですけれども、ヘルニアみたいなものに自分がなって。

何でも手作りだからやっぱりちょっと大変で……

 

― ヘルニアだと農業でも大変ではないですか。

ご主人:でも意外に農業は良かったんですね。

することが多岐に渡るじゃないですか。ちょっときつくなったら他のことをすればいいですし。

それでも何回かちょっと調子悪くなったようなことはあるけれども、パン屋は常に時間に追われていたので、それとまた違った開放的な中で、大変だったら作業を一旦止めてとかいうことも可能なので。

奥様:皆農塾に呼ばれてこっちに来た時に、私は事務方のスタッフみたいな感じだったんですけど、この人は腰痛でパン屋をやめたということを知られているから、皆農塾代表の恵子さんなんかもこの人には全然期待していなかったんですよ。

ご主人:そもそもなぜ皆農塾と繋がったかというと、うちがパンを作っていたら皆農塾が卵をガンガン送ってきて、余ったパンと交換しようと言ってきたんですよ。

 

― パン屋さんはどこで営業されていたのですか。

ご主人:東京でやってたんです。

 

― 東京のパン屋と寄居の皆農塾とでは距離がかなりありますが、縁はなんだったのでしょうか。

奥様:雑誌に出たんですよ。それを読んだみたいで。

ご主人:その頃は国産小麦のパン屋がよく特集されたりしててね。

奥様:雑誌と言っても、私が勤めていた小さい出版社の雑誌で。もう今はないんですけど。

その中に情報交差点とかいうページがあって。

全国の共同購入運動とか有機農業とか、そういうことをしている人たちが読む唯一の雑誌みたいなのがあったんですよ。

そこに縁があったのでお店が紹介されたんです。

そうしたら皆農塾の人もその雑誌をずっと読んでいるタイプだったようで。

 

― それで「私のところの卵を使わないか」ということになり、初めて皆農塾との接点ができたんですね。

その頃はまだご主人も奥様もお互いに「知っている」くらいですか?

奥様:いや、なんとなく付き合いはありましたね。

ご主人:自分も学生時代、やっぱりその雑誌は読んでいて。自然食通信という雑誌だったんですけど。

奥様:エコロジーに関心がある人は読んでいる雑誌だと思うので。

 

― 奥様はパン屋を手伝っていたわけではないんですか。

奥様:パン屋は一緒にやってたんです。

ご主人:修行しいてる途中で知り合って一緒になって、それで店でもやるかっていうことになりましたね。

奥様:私はレジとか販売で。つくる方は全然できませんから。

 

― それでパン屋をやってる途中で腰を痛めて、どうしようかという時に皆農塾に研修に行くことになったんですね。

ご主人:皆農塾的にもちょうど女性スタッフがいなくなった時だったのかな、どうかわからないけれど。

 

― 奥様はスタッフとして働くことになったんですね。

ご主人:自分は研修すればいいと思っていたんですけど。

 

― もともと農業をしたいと考えていらっしゃったわけですからね。

奥様:もう子供2人いましたからね。

無収入では暮らせないから私がスタッフ扱いで少しお金頂いて。

この人は研修生でタダ働きという、そういう形でしたね。

 

― そうなんですね。皆農塾ではどのくらいの期間研修されていたのでしょうか。

ご主人:2年間くらい研修していたけど、1年半くらい経った頃にすごいちっちゃい桑畑を紹介されたので、桑の根っこを1本1本抜きながら畑を作っていました。

皆農塾では半年間くらいは、主に鳥の世話をしていたかな。

でもそもそも、我々が来た当初は誰も畑を簡単には貸さなかったんですよね。

農家さんがそこら中にいる時代でした。

 

― 畑を借りるのに苦労されたとのことですが、寄居の皆農塾で研修を受けたあと、本格的にご自身で農業を始める時には違う場所にしようとは考えなかったのですか。

ご主人:最初に桑を抜き始めた時は、ずーっとここでやるかどうかは分からないと思いながらやってました。

この人(奥様)は皆農塾で働いているし、子供も小さいから私はここでとにかくぼちぼち始めるっていう感じでしたね。

 

― それが段々と広がっていったという感じでしょうか。

ご主人:そうですね、そうやって私がやっていたらついに地元の人が声をかけてくれて、それでパッとある程度広がって。

ただ、それからも他の場所を借りようとして断られたりはしましたね。

奥様:地元の人も、本人は良くても、親戚に「そんな何処の馬の骨とも分からない人に」みたいに言われたりして。

まあ当たり前ですけどね。

ご主人:今市なんかはかなり農業地帯に近づいていくけど、鷹巣・西古里というとかなり中山間地に近いじゃないですか。

それでまあ今思うと大変世話がかかるような、決して効率的ではない農地だけれども借りる事になって。

そんなふうに畑の世話をしているうちに、気が付いたら時間が経っていたというところですかね。

 

― 今はどのくらいの面積なんでしょうか。

ご主人:畑として借りているのは一町五反くらいなんですけど、なんだかんだそれに付随して管理しているのは二町近くだと思います。

奥様:ここ数年でだいぶ返したんですけどね。

ご主人:一時はね、他の世帯に分けたりして共同でできるように、とにかく一生懸命広く借りてと思っていたけど、もうあんまりこの先はないなって感じで。

現状ではオーガニックというのはかなり厳しいですからね、実際。

いや、そもそも普通に農業自体が厳しいですからね。

 

― 農業自体が厳しいとのことですが、実際に自分で畑をされ始めて、研修で習ったこととの違いを感じたりしましたか。

ご主人:そうですね、研修では配達したり鳥の世話したりとかがほとんどで、畑でも「あれやって」「これやっといて」「片付けておいて」みたいな感じだったから(笑)

ただまあ、そこらへんの人がみんな農業をやっているからね。

それを見ていればいいかなという、そんなのから見様見真似で。

あとはかつての色んな経験……例えば自分が大学でやっていたことだったり、昔は隣の家の畑が遊び場だったとか、有機畑だったっていうのもあるから、素養としてはかなりいただけていたんですよね。

だからそんなに特別手取り足取りとかされなくても、近くのおじいちゃんおばあちゃんとか見てきたので大丈夫というところはありましたね。

養鶏に関してはすごく学ばせてもらったけど、うちももう今はやってないんですよね。

以前の雪害で相当小屋が潰れたので。

奥様:その前からもう縮小していこうという方向ではあったんですけど。

ご主人:鳥インフルといろんなことがあったので、全羽処分とか、そういうのは何としてでもしたくないなというのもあって。

まあやっぱり非常に同じウイルスでも、鳥が受ける影響は過酷ですよね。

人間は「自分たちが生きれなきゃしょうがねえんだ」という話なんでしょうけど、何百万羽と今まで殺処分してきて。ひどいことです。

 

― 畑の肥料として鳥の糞などを使われていると聞いたのですが、今はどのようにされているのでしょうか。

ご主人:今も同じなんですけど、仲間でも鳥を主にやってる人っていうのがいるんですね。

そういう人は糞が多くなってどんどん溢れかえってくるから自分では使いきれなくなるんです。

そういうところから自分で集めれば安く購入できるので。

 

― 肥料は他にも混ぜているものがありますか。

ご主人:そうですね、肥料はうんといろいろなものが混ざっていますね。

米ぬかとか藁とか。

 

― 今は何種類くらいの作物を作られているのですか。

奥様:数えてないんですよね(笑)

ご主人:まあできるものは全部……っていう。

奥様:登録した種の数だけで700近くあるから……でも半分以上は試して止めてを繰り返していますね。

 

― 覚えていないくらいに常に育てられているんですね。

ご主人:そうですね、意識しなくても365日やるし、何種類か撒くときは撒くし、そんなにきっちりやってなくても200とかはいっちゃうでしょうね。

奥様:それで有機認証を取ろうとすると、ひとつ作付けたら、必ず1枚は書類を出さないといけなくなるので、印刷したらすごく厚くなっちゃうんですよね。

それが何百種類とあるから……。

ご主人:そんなことをやっていたら大変ですよね……そのうえこちらからお金を払って「認証していただく」というような感じになるので。

奥様:スーパーにJAS有機(認証)を付けて出すコーナーを作ってもらったこともあったんですけどね。

ご主人:その時はJASのシールを貼ってやりましたけどね。

奥様:でもそれも何個売れたというところまで記録しなきゃいけないわけですよ。

だからもうやっていられないと。

仲間も書類の束を見たら、やれないって言って。

 

― そういった苦労もあって認証は受けずにということになったのですね。

それでもたくさんの種類の野菜を育てられていますが、輪屋さんへの共同出荷も無くなった今、どのような販売方法をしているのでしょうか。

ご主人:主に野菜セットとして販売しています。

 

― 野菜セットはどれぐらいの人数の方が購入されてるのでしょうか。

奥様:お客さんは100人はいませんが、数としては200セットですね。

 

― 100人はいないといっても相当な数ですよね。それも全部ご自身で箱詰めや出荷、配達をされていると聞きましたが、大変ではないですか?

ご主人:まあそれでもだいぶ減ったんです。

奥様:どんどん減ってる(笑)

ご主人:もうやっぱり、寄る年波じゃないけど……。

奥様:お客さんもやっぱり高齢化して、毎週だったのが隔週になったりとかして。

ご主人:子供さんがいて大家族だったのが、二人になったとか、ひとりきりだからそんなに量がいらなくなるとか。

 

― 家族が減れば、食べる量がそもそも少なくなりますからね。

奥様:私たちと同じ年代の主婦も、子どもたちがもう出ちゃってますね。

自分たちも同じような環境にありますけど。

 

― 昔に比べると少しずつ負担は減ってきているのですね。

ご主人:全体的に先細っていっていいだろうという気持ちはありますね。

 

― 今は社会も停滞気味で低所得層が増えています。オーガニックな食材はどうしても価格的に少し高く見られがちだと思いますが、どうすればオーガニックがこの先に広まっていくと思いますか。

ご主人:私が思うのは、この世の中を見れば見るほどね、もうやっぱり住む場所を変えていくというか、世界を変えていくくらいの感じだと思うんです。

そうしていきたいと思うようになっていかなくちゃダメだと。

東京はコロナですごく住みづらいなと思ったら田舎に。

田舎で何かやっていてもうまく行かないなら何かを変えてみるとか。

色んな状況の中で、作り手がパッと「これをやってみよう」という風になれるかどうかという。

作り手がひっそりやっててもいいとは思うんだけれども。

どこかで目につくこともあるかもしれないし、色々なアピールをしていく中ではちょっとした勘違いも生じたりするかもしれない。

それでもそれをきっかけとして入ってきて、紆余曲折しながらでも、とにかく耕地だけは生き延びて、そこで働く者がいて、となっていけばいいのかなと思いますけどね。

奥様:非常に夢物語みたいな話で申し訳ないんですけどね(笑)

お隣の小川町みたいに農業雑誌に出たりする華々しさとか、学校給食を変えたりとかね、そういうのとはちょっと違う自分たちのやり方でやってるから、全然ぴんとこないんですよね。

そんな大きなロットで出せるような作り方していないし、そうやって品目を絞って農業をやりたいという人がいればぴったりの販路になるんでしょうけど、自分がそう思わないから。

そういうふうに思えない自分が生きていくためには、こういうことしかできなかったよな、みたいな感じで。

でもそれは、これからの人には決してお勧めできない。大変だから(笑)

そういうことであんまり先は見えないですね。

ご主人:今ね、有機どうのというよりも農業そのものがやばいという感じじゃないですか、どっちかというとね。

奥様:だからやっぱりこの地域の農業、この人は耕地を残したいと言ったけど、「この地域で食べ物が作られていく」という未来に近い選択だったら何でもアリというか。

私、申し訳ないけどオーガニックには全然こだわらないし……

ご主人:こだわらないと言いながら、自分たちがやるのはそういうものになるんでしょうけれども。

奥様:だけど慣行(農業)の人でも続けてくれていれば本当にありがたい。

ご主人:本当にひとりでも、どうであれやってくれている人がいて、道を共有共同で管理できるとかそれだけでも凄い違う。

何もかんも自分だけで畑を維持するのはとんでもない……。

奥様:今自分たちそれをやっているんですけど、やっぱりポツンポツンでも、自分の畑をきれいにしている人たちが一軒でも多く残ってくださることが希望であるというか。

 

― オーガニックより前の段階に大きな問題があって、それを解決していくことを考える方が大切だというでしょうか。

奥様:この地で食べ物が作られているという。

ご主人:きっとそれを多くの人が考えるようになったら、オーガニックは確実に増えていくのだろうと思っています。

 

―もっと大きく裾野を広げてあげれば、その分だけオーガニックにも影響が出てくるということですね。

ご主人:そうですね。

 

― お二人が農業していて、良かったなと思うことはなんでしょうか。

ご主人:やっぱり自由に見聞きしているっていうのがね。

目に留まるもの聞こえてくるもの、それに少しこう心を寄せる瞬間というか……そういう時間を自分で取れるというのがいいんですね。

その時やっぱり良かったなって思いますよ。

 

― 30年近く農業をされていますが、頻繁にそういった瞬間は訪れるものですか。

ご主人:そうですね、それはしょっちゅうあります。

いや、小さなことですよ。小さなことですけど、「あっ」なんて思うようなことってあるじゃないですか。

それがすごく楽しいですよね。

それは野菜でも、綺麗だとかおいしそうだとか朝露でピカピカしてるなとか。

そういうような瞬間瞬間ですよね。

 

― 自然は常に変化しているので、そういった発見は多そうですね。

ご主人:毎日に何か魅せてくれます。

 

―すごく貴重な経験ができるお仕事ですね。

ご主人:大きなことはあんまりないんですけどね(笑)

 

― 奥様はいかがですか。

奥様: やっぱり人間の手に寄らない美しいものっていうのもあるし、でも逆にここまで手をかけたから美しいというふうに感じることもあって、両方あるかなと思うんですよね。

それに畑やその周りとか、自分たちが何十年か管理してきて、描いてきた景色みたいな中で日々働けるのすごいいいなって思います。

あとさっき言ったね、人間が関わっていない美しさみたいなものも日々感じ取ることができる畑に毎日いられるのはいいですね。

他の方も畑に出ると元気になると言いますし、そういった思いはみんな感じながら仕事してると思うんですけどね。

ご主人:そうでもないとね(笑)

私も今朝、暑さで体が完全に発酵した状態になってから今、着替えてインタビュー受けているけれど。

もうそんなんでね、一日に何回も発酵しちゃうもんですからね。

あんまり言わなくなったけど、オゾン層はどうなってるんだとかね、熱だけの問題じゃないだろう、紫外線はどうなってんだとか思いますよ。

そういった意味では、一般的に言えば決して健康的でもないというかね。

気温36度とか37度の時に一生懸命外でやっていたりしていますから(笑)

 

― どちらかというと外に出るのを止められますよね(笑)

ご主人:だと思うんですけれどもね(笑)

経済的にも見合わないけれど……だけどそれをしてもいいものがあるからきっと続いているんだろうと。

 

― そうですね。こうやって生活ができているうえで、日々感動や心を動かす瞬間というのがあると続けていく意味が生まれますよね。

奥様:まあ運が良かったんですよね、うちなんかここまで続けられたのは。

最初の反応がね、野菜を売るのにピンポンしたら人がいる時代だったとか。

ご主人:今はネットとかあるけどね。

奥様:でもネットはもう情報が溢れているから……それはあなた知らないから(笑)

ご主人:いやいや、やらないけど、娘とかはね。

奥様:それでも最初はやっぱり知り合いから始まってるんだよ。

ご主人:知り合いから始まっているけれどもそれはね、まったく何もなしにはね。

 

 

― 最後に、お二人のこれからの夢をお聞きしてもいいですか。

ご主人:もっと小さくなっていけたらいいなというのはあります。

自分も飲んだり食ったりもそんなになくなって。

それでいろいろなことがもっとこう身近になっていくっていう。

今の畑、二町では広いんですよ。

一生懸命それを自分で感じようとするけれど、この広さだと大変なところもあります。

それだけあるから喜びというかいろんな出会いもあるけれども。

だけどもっと小さな……それで完結できればというのはありますけどね。

 

― 奥様はいかがですか?「全然私はそう思ってない」とかありませんか?(笑)

奥様:あはは(笑)

でもやっぱりこの家に近いところで、本当に死ぬまで携わっていけるような畑があるといいなとは思うんですけどね。

いいなと思っているだけで実際にあんまり動いてはいないんですけど。

ご主人:ここに越して12年とかだっけ?

奥様:うーんとね、2007年だから14年になるのかな。

ご主人:それまでは、畑がある方に別の家を借りていたのでね。

それからこっちに来て。向こうの畑があるからこっちでそんなに熱心に借りることもなかったけど、距離はやっぱりあるので大変ですね。

― これからはより暮らしの一部に農業が近づいてくるようにしたいという感じですね。

素敵なお話をありがとうございました。

過去の 菜園「野の扉」ホームページ

かつて、輪屋さんが菜園「野の扉」伊藤さんの畑にお邪魔した時のことが紹介されています。

 

伊藤さんご夫妻に、地域の有機農業グループ「よりい輪組」について、結成の経緯や現在の状況等のお話を伺いました。

【「よりい輪組」の結成から「耕す会」の発足へ 】

かつて、自然食品店「輪屋(りんや)」との縁で、そこに共同出荷するグループとして発足したのが「よりい輪組」のはじまりでした。

2011年3月11日東日本大震災があって、その時の原発事故の風評被害として「もう東日本の野菜なんか食べたくない」っていうことになり、輪屋も店を閉じる事になり、同時に輪組からの野菜の共同出荷も無くなりました。

輪屋は閉じても輪組は続けていこうということで、情報交換の場として「輪組」を続けていました。

また一方で、震災が起こって、我々の活動も地域と関わって行くべきということになって、「耕す会」というの会もつくりました。

 

ところで、輪組という取り組みはどのように生まれたのでしょうか。

奥様:「皆農塾」という脱サラの農業者を育てる研修を行っている農業塾があって、私たちはそこで研修をしたんです。

他にも同じように研修して、何年かしてこの地で独立したっていう人たちがいて。

ご主人: それと町の農林課が絡んでいる育成塾などで出会った方々……そういった方々との集まりが「輪組」ということになっています。

そもそもなぜ「輪組」が始まったかというと、東京に自然食品店「輪屋(りんや)」というお店があって、そこに共同出荷するグループとして発足したのがはじまりなんです。輪屋はかなり大きくて、すごい販売力だったんですよ。

奥様:私たちは2000年に有機JASを取得したんですが、そうすると「オーガニック電話帳」というようなリストに名前が載るんですね。

それを見て輪屋さんがうちにコンタクトを取ってきて。

私たちは93年に独立したのですが、はじめは近場の家のインターホンを押して営業するという形を取っていました。

当初はそうして売り先を広げていたのですが、続けていくうちにどんどん先細りしていって、販路が確保できないような状態になっていて。

ご主人:その頃、私たちは有機認証を取得したので、周りの農家さんと一緒に学習会をしたりしていました。

それで私たちが輪屋と付き合い始めたときに、若い人たちみんな出荷先が必要だということで輪組を作ることになりました。

奥様:それまでは近場でも、毎日自分たちのことで精一杯で、人の畑も見に行けないし、車ですれ違ったら挨拶するぐらいの関係だったのですが、共同出荷で品目を調整したりすることで交流ができてきて。

ご主人:初めて交流したっていう感じですね。

奥様:月イチで交流や会合、例会を開いたりすることとで関係性ができてきました。

例会はコロナ禍になる前までは続いていましたね。

ご主人:一方で東日本大震災があって、我々は東京に出荷していたけれども、その頃はもう東日本の野菜なんか食べたくないっていうことになっちゃったんですよね。

輪屋も大きなビルを手に入れて拡大を始めた途端だったのにそんなことになってしまって……それですっかり頓挫して、輪屋も店を閉じる事になって。

奥様:輪屋への共同出荷は7、8年続きましたかね。

で、輪屋に出せるようになったので、うちはもうJAS認証を辞めちゃったんですね。

まあ認証はお金もかかる手間もかかるけれど、その割にメリットがそんなにないっていう状態だったので。

ご主人:ただね、その学習会をみんなで始めた時点では、今後有機としては認証がなければ売れなくなってしまうという危機感があったんですよ。

だけど実際のところは、店頭で「有機野菜」など表示したりしなければいいという事になって。

輪屋の経営者さんも、JAS認証の野菜でもかなり農薬を使っていることを調べて、それならば全く使わない方がマシ、認定なんかいらないっていう考え方をされていたのでまったく必要なくなったんです。

それで今も、やっぱり有機JASマークは拡大していないですよね。

我々も止めたし誰も続かなかったし、それで良かったかなと。

時間は相当費やしたりしたけど。

だけどそれがきっかけで出会いがあったり、いろいろなグループができてよかったかなとは思います。

奥様:輪屋さんと出会えたのが唯一収穫っていう感じですね。

 

― でも輪屋さんが閉じてしまったのはすごく痛手でしたね。

ご主人:そうですね。

どうしても共同で出荷するとなると、当たり前ですが収穫物って重なるんですね。

それを調整したり、みんないろいろ気を使ったりしながらやるっていう作業は、これは骨が折れるけれども、それぞれがお互いのことを考えるっていうきっかけにはなりましたね。

同じ野菜を出すことで切磋琢磨することになり、品質の向上にも役立ったと思っています。

でも輪屋が閉じてしまい、「じゃあ輪組というのはもう意味がないかな」というような考えにもなったんですけれども。

だけどみんな、続けていこうというか、まあ会うことだけは続けようとなって。

それでいろいろ、耕作や資材などについてお互いに情報を教えあったり、「今こういう害虫が出てきたよ」とかそういう情報交換の場として続けていました。

また一方で、ちょうど震災が起こって、我々の活動も地域に入り込んでいくべきということになって、「耕す会」というのができました。

その「耕す会」の最初の力関係においてはそんな中核ではないかもしれないけれども、その言い出しっぺみたいな部分を輪組の人たちが共有して、それで地域の中に入っていったと。

「耕す会」で地域の人々と共に最初に行ったのは原発関連の請願だったんですけれども、その後すぐにイノシシ被害がものすごい勢いで出てきて。

それで山問題とかそういったことを地元の人と輪組で考えていきました。

地元のなかでの新参者っていうか、新規就農者としてまとまっていましたね、輪組は。

奥様:共同出荷をやってるときにはあんまり地元との関係性はなかったんですけどもね。

 

― コロナ禍の今でも「耕す会」は活動されているのでしょうか。

奥様:2020年の11月が最後ですね。

夏も何もイベントもできなくて、11月に草刈りをしたのでその時にお弁当を作って手渡したりしました。

ご主人:そのお弁当も輪組が提案・実行したりなどして、地域の大きなまとまりの大事な部分を担っているというところですね。

 

― 「耕す会」は輪組以外にこの辺りの農家の方が中心になっているんですか。

奥様:農家に限らず、地元の住人の方々ですね。

ご主人:今は50人ぐらいになっています。

 

― 農家でなくてもイノシシの被害はありますからね。

奥様:農業で稼いでなくても畑はありますからね。庭先横切ったりするわけだから。

 

― ほっくり返し始めるとひどいですからね。

奥様:山は地元の人たちが持っているわけですからね。

輪組は土地もないし山もないんだけど、そこで暮らしをして生計をたてているっていうことで、一緒に。

 

― 今、輪組のメンバーは何人くらいいるんですか。

ご主人:輪組は10人ぐらいかね。

 

― 「耕す会」は何年くらい前からあったのですか。

奥様:2011年の秋に設立されて、町への請願などをしたり、踊りや健康について活動したりしていましたね。

 

― 荒れた山の下草刈りをしたら本当にイノシシが出なくなったという話を耳にしたことがありますが、やはり効果は大きいんですか。

ご主人:そうですね、「耕す会」としていろいろするのと同時に、猟師さんとの関係ができて、一緒にワナを仕掛けたり点検したりとかもね。

捕獲の時に実際に行って手伝ったりして、十数頭をそこの山で捕まえたわけですよね。

奥様:もっと多かったような気がするけど(笑)

ご主人:でも20頭はいないと思う。

奥様:もう寝床というか繁殖地になっていたんですよ。そんな深い山じゃないんですけど、なんとか繁殖地ではなくなったというのが4、5年前かな。

ご主人: そうやってかなり猟師さんも頑張ったっていうのと、あとウイルスですよね、やっぱり。

鳥インフルと豚ウイルスと人間のコロナなどいろいろ襲いかかってきましたね。

イノシシなんて、最初は自由気ままにやってるから倒れることもないだろうというか、罹ったとしても……と思ったら意外にやっぱり野生っていうのは大変なんですね、生きるのがね。

仲間の猟師が山に行ったら何頭も倒れて死んでいたなんてね。群馬の方ですけど。

増えれば増えるほどやっぱり人間の側にも圧がかかってくるけれど、そっちが空洞化しちゃったから圧があんまりかかってこなくなったんですね。

それで今は例が少ないんですけどね。

そういった状況と我々の頑張りと両方でということですね。

ただ、もしかしたらまた始まっているかもしれない。

 

― でも今は電気柵まで使うほどでもないんですか。

ご主人:電気柵は全部しないとですね。

サツマイモを植えるじゃないですか。植えてまだ刺してあるだけなのにほじくり返されるぐらいでしたら。

私は毎日、鷹巣とかの畑をまず朝の行きがけにバッと確認して、こういう動きだなと確認して、それでYさん(猟師?)と連絡を取り合っています。

一番大変なときは、「今日はここに何頭、今日はここに何頭」とかそんな感じでやってましたからね。

もうすごかったですよ、本当に。畑で争いみたいなのもあったりね、イノシシ同士の。

奥様:地元の人も危機感があるから、一緒に。

人の家の山なわけですよ、言ってみれば。

だけどやらなくちゃという気持ちをみんな共有できたんですよね。

そのためにはいろいろ、ここに出たとかあそこに出たとか、出没した地図を作って皆さんにニュースで出したりとか。

ご主人: それをずっとしてました、その頃はね。

ただ個々の人たちは受け取ってくれるけれども、区としては取り組むことはできないということになって。

なかなか難しいんですよね。目標としては区がちゃんと絡むこと……イノシシとか森や山の問題に絡むことというのが目標だったけど。

一応、「耕す会」と鷹巣・西古里区で話し合いを持つことはできたんだけれども。

「耕す会」も高齢化が進んでいるから、いつまで……今度本当にイノシシが爆発的に出てきたら対応できるかというと、俺はもうあんまりできないなと。

なかなか発展しないですね、本当は町がちょっとでも絡んでくれるといいですけど。

まったくそれはダメですね。

奥様:まあ電気柵の補助、それだけですね。

 

― 町とするとイノシシの被害、害虫被害などは多くないと思っているのでしょうかね。

ご主人:いやそんなことはないと思いますよ。

元農林課長さんを捕まえて1時間ぐらいガーッと話したりしましたし、ちゃんと聞いてくれた農林課長も何代かに渡っていらっしゃいました。ただ、一生懸命聞いてはくれたけどできないという。

 

― 最近は山だけではなく住宅街にもイノシシ被害が出てますよね。

ご主人:一時、畑の入口にある自動車修理屋さんから、「獣害で車が壊れたというのが大変多いんですよ」と聞きましたね

シカとイノシシの両方で。すごかったですねその当時は。

 

― 去年私も出掛ける途中大きなイノシシが横切ったところに遭遇しました。

奥様:やっぱり山が荒れてるんですね。

ご主人:でも、近くの猟師さんはジビエを出せるようにまで自分で投資をしたけど、イノシシがなかなか取れなくなったりしていますね。

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