2022-04-19

皆農塾 鈴木恵子さんのインタビュー ~ オーガニックな暮らし ~

【皆農塾 鈴木恵子さん】 皆農塾代表

皆農塾は、1980年一冊の本をきっかけに集まった有志たちが立ち上げた、脱サラ百姓志願者の為の農業塾です。当時から関わってこられた鈴木恵子さんに42年間の歴史を振り返り、今また思う事をお聞きしました。
いつも笑顔で迎えてくれる、実直で、寛容な恵子さんの魅力が引き出されたインタビューとなりました。
寄居町の有機農業の歴史を語る時に、皆農塾・鈴木恵子さんが大きく関わってこられたことは、寄居町で有機農業を営む他の多くの人たちが語る言葉からも明らかです。

 

― 恵子さんが寄居で皆農塾をはじめたきっかけを教えていただけますか。

皆農塾は、私たちと同じ初期メンバーの坂根さんという方が「都市生活者のためのほどほどに食っていける百姓入門」という本を出して、そこに人が集まった形です。

当時は非農家の出身者にとって農業へ踏み出す手がかりがなかったんですよね。

それで彼が農業塾を立ち上げたいという思いがあって、彼の本をきっかけに集まった連中で皆農塾を立ち上げました。

私も少しは農業していましたが、ほぼ素人。でもそんな素人の私が代表になって。

でも実質の頭はその坂根さんという人ですね。

 

― 恵子さん自身は昔から自然や農業が好きということではなかったのですか。

なかったです(笑)

きっかけは子どもができて、私自身も子供たちもアレルギーはあったので安全なものを、ということですね。

それとあともう一つは、多分当たり前にお母さん感覚かな。

子どもができて仕事をやめて、世の中とつながりがなくなっていくわけですよね。

そういう中でやっぱり食べ物に強い関心を持っていたっていうことかな。

 

― その当時は有機無農薬の食材を買うことは今に比べて難しかったですか。

難しいというより、そんなものなかったですよ。

その時代は消費者が安全なものを作っている生産者を探して譲ってもらう感じですね。

それとあともう一つ、私が結果的に踏み出すきっかけになったのは、経済的自立ってやつですね。

でも子供3人抱えてパートで仕事してると、経済的自立なんて程遠くて。

世の中はやっぱり平等じゃないから、その中であがいても仕方がなくて。

じゃあ自分で食べるものを作ろうと思いました。

 

― たくましいですね。

皆農塾の創設メンバーは坂根さんと恵子さんということですが、その後はどう活動されたのでしょうか。

 その後坂根さんは四国へ行かれたんですよ。

都会の人達が脱サラして百姓になるっていう夢もあるけど、その先はやっぱり自然豊かな、そして過疎地っていう夢があるんですね。

それで私がそのあとを引き受けるとことになりました。

研修生がたくさんいてね、その時は。

 

― 何人くらいいらっしゃったんですか。

6、7人いたんじゃないかな。

でもそんなに引き受ける実力なんてなくて。

でも意欲ある研修生が……屈強な若者がいっぱいいるわけです。女性ももちろんいましたけど。

それで「恵子さんが運営を続けてくれるんだったら俺ら頑張るから」ということで、私を相手に研修を続けるとみんなが言ってくれて。

それで皆農塾そのまま閉めずに続けることになりました。

でも踏み出した全員向こう見ずなんです、浅はかなのよ(笑)

だけどね、不思議と一年やるうちに実力少し付くでしょ。

そうするとまた2年目できるわけ。

逆に言うと、浅はかで現実が見えてないから「ちょっとできるんじゃないかな」という希望があるわけ。

売り先だってまだその時は欲しいという人がいっぱいいるわけだから、日本の農業とか、世界のナントカとかって言われても「そんなの知るか。俺が5人か10人の客と出会えばいいんだろう」と。小さく考えたらね。

そうしたら世の中変わっていくぞみたいな感じで。

 

― 決してプロフェッショナルが集まったわけではなく、教える側も学ぶ側も、みんな手探りだっということですね。

最初は失敗もあったりしましたか。

たまたま私たちは肥沃な土地に巡り合っているんですよ。

それにひとつの区画が小さくて、有機農業、多品目少量生産という栽培には適したところを借りることができたし、養蚕がどんどん減って桑畑をみんな使ってほしいから、好きなように使っても良かったんです。

あともうひとつ重要なのは、もともと始めた坂根さんが「脱サラの人間は体力もないし、地縁もない。だから全部野菜作りだけではしんどい」という考えで平飼い養鶏で鶏を飼っていて、

基本はその平飼い養鶏と有機野菜、このセットで始めたんです。

なので、私たちにはすごく使い勝手のいい安全な鶏糞があったということですね。

だからそれを使って作ればなんとか野菜はできたんです。

まあ、良い野菜は多分初めからできていましたよ。

 

―すごいですね。

今は何が難しいって、通常野菜ができない端境期といわれる季節にも、年間通して作付けをして約束している人に届けようと思っているからなんですよね。

 

― 年間を通してとすると難しいけれど、いうことなんですね。

有機無農薬の野菜づくりのハードルは高く思われていますが、一概にそうではないんですね。

そうなの。

もちろん打ちのめされることもあるのよね。

雹にもやられるし雪も辛いし、日照りも辛いし……そうなんだけど、それずっとじゃないのね。

「え、私こんなに腕良かったかしら」とちょっと自惚れちゃうくらいの好天に恵まれて、作物ができちゃう時もあるわけ(笑)

それでね、そういう時って豊作貧乏って言われるように値が下がって辛いんだけど、私たちは消費者が欲しいものを作っているから、こっちの言い値で買ってくれるわけですね。

だから暮らしが立ったの。

― 恵子さんは教える立場でしたがプレッシャーなどありませんでしたか。

教えるのって面白いのよ。

みんなが私にプレッシャーをかけないのよね。

小川は有名な有機農業の町じゃないですか。有名な先生もいるでしょ。

ここは研修に訪れた人に「どうして小川に行かないでここにしたの」って聞くと「初めて来た時のご飯が美味しかったから決めた」とか非常に単純なんだけど、きっと教わりたい側の人は偉い先生に教わりたい人と、知識の豊富な人に教わりたい人と、それから別にそんなに知識なくて、一歩か半歩先に行ってる人に教わるのでいいと思ってる人がいるんですよね。

だからね、本当にちょっとでいいんですよ、教えられることは。

その代わり、自分が十分でないからそれダメこれダメって言うのは無しなんですよ。

逆に「アリかもしれないね、いいよ何でも好きにやって」「その代わり記録つけよう、来年の足しにしようよ」というようにする。

自分の腕が良かったらやっぱり「そんなことするな」と言ったと思うんだけど。

 

― 塾長と生徒というより同じ志を持った仲間同士のイメージなんですね。教わる側も気が楽にできるような気がします。

こんな小さいおばさんで細腕でしょう?持ち上がらないものなんていっぱいあって。

でもとりあえず「俺ら1年ここで研修したいからこのおばさん助けようぜ」っていう気分になるよね。

うちね、研修費を初めからもらっていたんです。

やっぱりちょっとでも身銭切った方がいいと思うのよ。

15万円の研修費と入塾費5万円で合計20万円くらいもらって。

そうしたら中途で辞めるとき、20万円が悔しいから頑張るわよ(笑)

その代わり住み込みみたいにして。

そこで「農業をしてすぐは稼げないからお金使わない暮らしを楽しむくらいにならないと無理だし、1年間お金使わないくらいの気分でやってみたら?」って言うの。

そうすると本当にそうする子がいるし、それで「大して金いらない」って思ったらもう強いよね。

それから脱サラ百姓が話題になった時期だったからいっぱい取材も受けて。

ちょっと面倒臭いけど、反響はあってお客さんから連絡がくるの、野菜欲しいって。

研修生も独立したらお客が欲しいじゃない?

だからタダで宣伝してくれるなら受けるよっていう感じで取材何でも受けた。

ビラも作って配ったりもしたり。

 

― 農業だけではなくて、生き方まで学べるのかもしれないですね。

恵子さんとお話ししていると有機農業の大変さよりも楽しさを感じ取ることができます。

そうね、それが勝っちゃうよね。

でも私には娘が3人いてね。突然貧しくなっちゃうわけですよ。

子供たちはいろんな思いはあったかもしれないけど、結局、選び取った貧乏なんですよね。

「貧乏は誇りです」とか言って威張っていたから私(笑)

だから子供たちも結局それを楽しむというところがきっとあったと思いますね。

 

― 恵子さんは有機農業そのものに対してどんな思いがありますか。

私はたまたま非農家出身で、有機だった。

もし生業として農業を選び、それで生きていこうと思ったら差別化しかないですね。

それから大型化というのもない。資金もないわけですから、小さく始めるかない。

そんな風に考えたらやっぱり有機農業だったということだと思います。

もちろん安全に関心はあったけど、それを生業としようと思ったらビジネスですからね。

だからそれはきっちりと見極めなきゃならなくて、私たちがやれるのはこれだったんだと思うんです。

 

― 結果的に最善の選択をしていたら行き着く先がここだったということですね。

私いっぱい仕事したの、一冊本を書いたぐらい。

でもね。最後にこの仕事につい辿り着いた。

どの仕事もそんなに長続きしないの。というのは私が飽きて長続きしないんじゃなくて、子供が病気になったりとか夫の転勤で辞めなきゃならなかったりとか。そんなのばっかりでね。

本当にいろんなことをやって、そうしてここに辿り着いた時には「最後の仕事だな」と思ったかな。だから幸運なめぐり合わせでしたね。

― この道に間違いがなかったということですね。

そうですね。

農業って、体を使うから体の喜びがありますよね。たとえば収穫とかも、心地よい疲れだから身体が喜ぶ。

そしてね、やっぱり知恵を使わないとダメで、上手いこと栽培して売らなきゃならないから頭を使って。そこで自分の考えが上手くいった時の頭の喜びですよね。

そしてあともうひとつ、心が喜ぶのよ。

汗をかいて働いているわけだけれど、汗を流したあとに立ち上がったらこの風、この空……この仕事ってすごくやっぱり心を満たされるんですよ。

体と頭と心の3つを満たす仕事ってそうないですよ。だから最高の仕事よ。

― 皆農塾の塾生は今まで何人ぐらいの方がいらっしゃったんですか。

50人以上いたと思うけどね。

研修生を頼りにしていた時代から、その後はウーフ(WWOOF)という世界的な仕組みの中で、有機農業を体験したいという海外の若者たちが盛んに来るようになったんです。

鶏がいて、羊がいて、糸紡ぎとか機織りができ、小麦も育てていたので自分の工房で天然酵母でパンも焼けて、あらゆる体験ができるみたいな。

それである意味人気のファームになって、年間通して海外の子たちが滞在してくれるっていう時期が十数年ありまして。

それもすごく楽しい体験だったんですね。

鶏の世話や離れた畑に行かせると、海外の子たちが自転車でこの男衾を走るわけですよね。

これってちょっとした国際交流ですよね。

 

― もしかしたらここが寄居町で一番グローバルな地区なのかもしれないですね。

コロナが落ち着いてきたらまた受け入れを再開したいと思いますか。

それはちょっと微妙ですね、正直言うと。

やっぱりね、仕事がないとダメなの。

人はね、しっかりと求められた仕事で育つのよ。

やっぱりやってもやらなくてもどうでもいいみたいな、余裕しゃくしゃくの仕事でなんて人は育たないの。

やっぱり必死さみたいのがないと、生半可に遊んで終わっちゃったら人は育たないよね。

コロナでどんどん仕事を私は減らしたので、もう一回できるか分からないの。

 

― 終わりにしてしまうのはとても惜しいです。

でもまたね。

私はね、どっちかっていうとお勉強とか交流とかだけではあんまり楽しくないの。

 

― あくまで仕事があって、とういことですね

そうね。

そうすると自分も鍛えられるし、本当に助けてもらうのよね。

その間に障害者の施設の仲間たちともしばらく仕事をしたわ。

彼らが来て助けられたな。

 

― 海外研修生は、やはりもともと農業をされている方が多いのですか。

学生が多いの。ギャップイヤーで大学に行く前に1年間休学して動いているみたい。

あとはマレーシアの女の子たち2人はインターンシップで来たかな。

優秀な子たちだった。

 

― 外国の方々にとって日本の農業といえばここだという認識になっていると思うとすごいですよね。

だからね、それも楽しかったね。

やっぱり綺麗な田舎家とかないわけですよ、脱サラだから。

大きな梁の古民家みたいなのがないと海外の子なんて受け入れられないわ、って思っていたんだけど、でもちょっと試しにやってみたら大丈夫だったんです(笑)

 

― 恵子さんはこれから先どんな生き方をしていきたいと思われていますか。

やっぱり大きさじゃなくて、出会う人と出会う。人と一緒に生きるということ無しには考えられないなって。

だから長期にしろ短期にしろ、人が訪ねてくれる農場を続けたいなって思うのね。規模が小さくなったとしても。

それからやっぱり自分の育てた卵と鶏の肉と野菜を食べて終わりたいなと思っていますね。

あとは生き物と共に生きていくっていうところも。

私はね、今、女性の人が良く踏み出して来ているけれども、やっぱり最初に男衾が寂しくなったのは女の人がいなくなっちゃったからだと思うのよね。

女の人が希望を持てる社会でないと子供も産まないし、先細りだよね。

衣食住ってあるでしょ。

食はやっているからいいわね。

住も鳥小屋だとか、庇だとか私だって作れるわけですよね。犬小屋だってみんな作るから、住っていうのもそこそこできますね。

でも衣服については、近代の始まりからどんどん私たちは衣服の自給から遠ざかってしまったんですよね。

そう考えると衣服を、自給まではいかないけれども逆戻りで体験してちょっと自分のものに取り戻す。

それができると、もっと暮らしは楽しくなるんじゃないかなと思うの、自然との関係の中でね。

そういう意味でいうと、羊っていうウールを紡いだり、編んだり、織ったりするっていうのが一番優しいんです。

そしてここは養蚕地帯だったから、なかなか綿は難しいんですけど、でもちょっと綿から糸を引き出して。小さなもので織ってみるっていうのも大きな体験になると思うんですよね。

そんなこともしながら、関心のある女性たちにも伝えていきたいし、子供にも体験してもらいたいなって思う。

だからそんなチャンスがあったらまた張り切っちゃうと思う。

 

― ではこれからは「女性の」というところがテーマになりそうですね。

ちょっとテーマになりますね。

バリバリしている連中に男を育てるのは任せたので(笑)

 

― 皆農塾から独立された方は、みなさん生き生きと楽しそうに農業をされていますよね。今日お話を聞いて、それはやっぱり恵子さんの考え方や伝えた言葉が広まっていった結果だと思いました。

でも多分ね、作物が育つ畑があるわけよね、お日様とか雨とか。だから人が育つの。

聖書の言葉で「求めよ、さらば与えられん」というのがあるけど、それはね、求めたものは一生懸命やったら必ず与えられるよっていう聖句なんだけどね。

でもね、求めても求めても与えられない荒野もあれば、求めたら殺されちゃう社会制度もあるけど、私たちは幸運なことにモンスーン地帯のこの男衾というところで、求めたら、一生懸命やったら報われるというところに今生きているから。

だから自分も育つし人も育ってくれるんだと思うわ。

― 素晴らしい素晴らしいお考えだと思います。一方で今はあらゆるところで後継者不足が問題となっていますが、そのあたりはどう思われていますか。

日本中の課題だからね。

だからここだけで後継者と騒いでみても、やっぱりハングリーにやりたいと思う人っていうのは時代だからね。それはないものねだりよね。

でも一応ね、来年研修したいという人がいるんです。決まるかどうかは分からないけど。

だから看板を下ろさないでいたら、またそんな出会いもあるかもしれないし、何かのきっかけになるかもしれない。

 

― なかなか解決の起爆剤みたいなものはないでしょうが、地道に少しずつというのが大切かもしれないですね。

専業じゃなくても本当にいいって思うのよね。

だから寄居オーガニックカウンシルと一緒に家庭菜園講座をやりたいのよ。

私一人でするのはちょっとしんどいというか、一人でするのは好きじゃないから誰かと一緒にするのがいいかな(笑)

月に1回か2回でも、それでいいと思うんですよ。

私もいろんなものをバラバラと受けるのは大変なので、問い合わせがあれば「家庭菜園講座だけど、そこの日に来てくれれば体を空けてるからお話できるわよ」って。

広報とかに呼びかけして、それで集まった人たちと一緒に楽しむっていう。

そんなことをこれからできたらいいなと思いますね。

 

― 貴重なお話をありがとうございました。

 

予告「有機家庭菜園講座」6月から開催予定! 主催:寄居オーガニックカウンシル

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